今週のお題父の日/父親

その男は、故郷鹿児島(旧米ノ津藩)を出て、終焉の地は瀬戸内海に浮かぶ小島だった。
全国の工事現場を転々と渡り歩く、今で言うところの土建業の親分だったと聞く。
どういう経緯かはわからなぬが、御殿場の現場で飯炊女を後妻にした。
その男が、私の祖父であり、女が私の祖母である。
そして、父は、土建業の親分の子どもとして、4人兄弟の末っ子ではあるが、唯一の男子として生まれた。
祖父が亡くなる前までは、その当時としては珍しく、わが家には蓄音機があった言う。
ところが、父が物心がつくかつかない頃に、祖父は亡くなり、その後残された一家は、生きていくための苦労が始った聞く。
戦時中、父は当時住んでいた瀬戸内海の小島から原爆を見たと言う。
一旦は、軍隊への入隊を希望したようだが、父の希望は果たせなかったと聞く。
祖母の策略により、女子高を卒業したばかりの鹿児島出身の女を嫁にしたと聞く。
その当時では、珍しくもない「家と家の策略結婚」とのこと、詳細は不明。
母の話だと、「結婚する当日まで、父に見たことも会ったこともなかった。」とのこと。
それは、父も同じであろう。
それから、1年して私が生まれた。
その後の父についての記憶は、ところどころ不鮮明ではあるが私の中にある。
今も両親共、瀬戸内海の沿岸地に健在である。
遠く離れた地で今、私は再就職戦線を妻子の見えない応援を受けながら孤軍奮闘している。
実に頼りない一父親として。
ただ、負け惜しみに聞こえるかもしれないが、子どもたちは一応無事成人してくれた。
少しは、肩の荷は下りたと思っている。
しかし、遠く離れた父母のことを思うと、私は胸が痛む。
だから、なるべくその問題の回答は先延ばしにして、父母の長寿をただ祈っている。
こんな頼りない兄だが、父母の近くに住む若くして夫とは死別した妹に甘えた状態だ。
年に何度か帰郷すればいいのだが、なかなかそうも行かない現実。
妹に、口出しては言いにくい、謝罪の気持ちと感謝の気持ちを念じよう。
「迷惑掛けてごめんなさい。それから、ありがとう。」

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