チーズの目 32

 今日は、昨日ように風はないけれど、昨日と同じようにいい天気だ。
 今日の朝の散歩は、ここの家のパパだったんだけれど、すごい手抜きで簡単にすまされてしまった。
 何か用事でもあるのか、珍しく早い時間に外出してしまった。
 そのかわり、今日のここの家のママは、昼過ぎからの出勤ということで、いつものエレクトーンのお稽古。
 
 丁度、ここの家のママが出かける頃に、ここの家のパパが帰ってきた。
 そしてすぐに、ここの家のパパは、隣町の図書館から借りてきた辻井伸行さんの「ショパン・コンクール2005」のCDを聴き始めた。
 辻井さんの顔って、ここの家の長男の小学校時代の顔にそっくりなんだって、そういうこともあってここの家のパパは、辻井さんの音楽を聴いてるじゃないかって思えるんだよね。
 僕としては、このまま音楽を聴くよりも、できればこんなにいい天気なんだから、はやく散歩に出たいんだよねぇ。
 だから、ここの家のパパが動くたびに、つい目がそっちに向いちゃうだよね。
 「早く、散歩に連れて行ってくれ。」ってアピールしたんだけれど、無視しているみたい。
 まぁ、このCDが終わるまで、もう少しおとなしくして待ってみるか。
 音楽が止まり、拍手が聴こえてきたから、終りだな。
 「ねぇ、散歩に行こうよ。」と、もう一度ここの家のパパの足に僕の前足を掛けたり、仰向けになって全身で関心を惹くように頑張ってるんだけれど、全く無視しているようすなんだよね。
 いや、ちがうか。
 僕の気持ちが通じたみたいで、外出の準備を始めた。
 僕は、本当に脱兎の如く玄関口へ走って行って、「いつでもOK。」って、後ろ足立ちになって僕の喜びを体中で表現したんだ。
 今日も、いつもの散歩コースとはちがうみたい。
 以前行ったE川の方向のようだ。
 町中を走るS川沿いを歩いていると、川面を叩く音がした。
 ここの家のパパは、川を見ることができるから何が起きているのかわかるけれど、僕と川との間には金網があるから、僕には何が起きているのかわからない。
 だから、僕は金網に顔を押し付けていたら、ここの家のパパは、僕を両手で抱き上げて、川の方に僕の頭を突き出してくれた。
 やっと何が起きているのか見ることが出来たんだけれど、見ると何箇所かでたくさんの真鯉が川面近くで身体を出したり引っ込めたりしているんだ。
 そのたびに、川面を叩くような音がしていたってことがわかった。
 だけど、真鯉たちは、一体何をやっているんだか、僕には理解不能
 ここの家のパパも不思議そうな顔をして、その光景を見ているだけだった。
 その姿を見て、通りかかった自転車に乗った初老の男性が、
 「本格的に暖かくなったから、真鯉も暴れているいるんじゃないか。」って笑いながらここの家のパパに話し掛けてきた。
 ここの家のパパは、
 「空気でも足りないんですかねぇ。」とその男性に問い掛けたけど、回答は返ってこなくて、
 「ここは、真鯉ばっかりだなぁ。水門の方に行ったら、緋鯉がいるけれどねぇ。いや、失礼。」と言って、自転車に乗って去って行った。
 ここの家のパパが、立看板の前で、立ち止まり説明文を読み始めた。
 僕は、「早く先に行こうよ。」って前に進もうとするんだけれど、主導権を握っているここの家のパパが動かないと悲しいことに、僕は前に進めない。ぐいぐい僕は引っ張ったんだけど、ダメ。
 そうすると、またここの家のパパは、僕を抱きしめて、その看板を見せて説明してくれた。
 今から72年前の明治38年(1905年)4月28日に徳川慶喜さn(徳川最後の将軍)が、この位置からステレオ写真を撮った場所との解説とその時の写真とその慶喜さんの後姿を弟の昭武さんが撮ったっていう写真が掲載されているんだって。
 そして、その立看板のタイトルが「あたなも慶喜公気分」って、書いてあるんだって。
 その立看板に掲載された写真と同じ風景を見ると川筋は当時とあまり変わりはないけれど、周囲の風景およびそこに写っている人の姿形は、まったく変わってしまっていた。
 慶喜さんのうしろ姿なんだけれど、歴史上の人物がすごい身近に感じたって、いつものここの家のパパのひとり言。 
 そして、僕は思ったんだ。
 住み慣れた町を(といってもまだ4年しか経っていないんだけれど、)僕のいつもの視線で(といっても、地上10センチってとこかな。)見る風景と、たまにここの家のパパに抱かれた視線(といっても1メートル20センチぐらい)で見る風景自体は、いつもと同じ筈なんだけれど、ちょっと違うんだよね。
 だけど、違うって感じるのは、僕の感覚器(センサー)が少しレベルアップしたってことかな?
 じゃないと、違いに気づけないんだもの。