チーズの目 33

 昨日の続きになるんだけれど、あれから僕たちはE川の土手に着いた。
 土手は、若草色の背の高い草に一面覆われていて、その中に黄色の菜の花がグループごとに片寄せあって、ところどころに散らばって、川から吹いてくる風に身を任せていた。
 その黄色の菜の花の周りには、モンシロチョウやミツバチたちが、きっと蜜を集めて飛び回っていた。
 同じ黄色の花をつけたヤングのタンポポや白い綿毛のミドルのタンポポ、すっかり綿毛のなくなったシルバーのタンポポが同居していた。
 単独で咲くポピー、名前の知らない草たちがたくさん、本当にたくさん生きている。
 ひと冬を地面で過ごし、生きているんだという植物たちの歌が聞こえる。
 生きたいから生きるっていう植物の生命力をひしひしと感じる。
 だから、僕はこの草叢に鼻を突っ込んでこの植物の生命力を僕の舌で感じているんだ。
 それなのに、ここの家のパパは、
 「何やってんだ?何かいいものでも見つけたのか?」って、見当違いの質問してくるのには、呆れる。
 この植物たちの生命力を感じる事は、できないんだろうか。
 この風景は、街中でも見つける事はできるよ。
 たとえば、公園とか神社とかお寺とか、いろんなところで草たちは生きている。
 僕たちは、すぐに匂いでわかるから、見つけようと言う努力はいらないけどね。
 見えたり感じたりする物がたとえあったとしても、それを見たり感じたりできる感覚器(センサー)を持っていないと何もないじゃないかってことになるんだろうな、きっと。
 それって、人間にわかってもらえるってことじゃないのかな。

 僕は、土手を駆け上がった。
 とにかく、僕は坂道・階段を見ると、すぐに駆け上がったり、駆け下りたりするのが好きなんだ。
 ところが、ここの家の人たちは、僕がそうすることを嫌う。
 それは、体力的に僕についてこれないってことじゃないのかな。(笑)
 土手の上の歩道脇の草叢に僕は鼻を突っ込んで、植物の生命力を感じたり、マーキングをしたりと機敏に動き回った。
 少し疲れたので、地面の上に座っていたら、ここの家のパパはそんな僕をリードで引っ張る。
 上目遣いに少し恨めしそうな目でここの家のパパを見ていたら、引っ張るのを諦めたのか、僕を両手抱き上げた。
 僕を左腕の中に収めて歩き出した。
 たった1メートルぐらいの高さの違いだけれど、地面すれすれで見ていた風景とこうやってここの家のパパに抱かれてみる風景はぜんぜん違う。
 この揺れの気持ちよさと自分の体力を消耗しなくていいっていう経済的合理性のためなんだろうか。
 それだけじゃない。
 視線が少し違っただけで、見える風景が変わってくるっていうのも、おもしろい。
 全方位で風景が見えるんだもんなぁ。
 この太陽の下で、なんてたくさんの生き物たちが、同じ時間と同じ空間を共有しているんだろうって、想像しただけでなんとなく、自分だけじゃなく実際に会ったことも話したこともないけれど、ただそれだけでうれしくなってくる。
 たまには、口も利きたくないって思うこともあるけれど・・・。
 いつもと同じなんだからって、気付かないうちに大切なものを見過ごすこともあるけれど・・・。

 あれっ、もう降ろされるの?
 もう少しこのまま、腕の中で揺られていたかったなぁ。