今朝見た夢。
ふと、昔のことを夢見た。
学生時代に付き合っていた彼女の夢だった。
卒業前の夏休みに、彼女が、実家のわが家にやって来たことがあった。
なぜか船旅で静岡から広島までやってきたのだ。
しかし、わが家から広島港までは遠い。
妹に頼んで、車で広島港まで迎えに行って貰った。
運転するのは、当時付き合っていた彼氏だ。
妹たちが選んだデート先は、出雲大社だった。
それから、わが家に着き、嫁入り前の娘と一緒の部屋には寝かせられないという、父の言葉で彼女とは、別々の部屋で一夜を明かした。
次の日は、当時の私は就職のためにと自動車教習所に通っていたので、教習所に行った。
一年後、彼女は、実家の静岡で薬剤師として、病院勤務。
私は、普通のサラリーマンとなり、その年の夏休みに、今回は、私が、彼女の実家に泊まることとなった。
その年の秋には、彼女に振られた。
そんな昔のことを夢で見たけれど、詳細なことは思い出せない。
あの当時、まだ妹は結婚していなかったはずなのに、妹は実家にいなかったと記憶している。
折角、実家に来てくれたのに、地元の名所を案内した記憶がない。
彼女は、一泊して翌日には、帰ったはずなのに、電車だったのか、船だったのか、思い出せない。
あの年は、それまで伸ばしていた長髪をバッサリ切って、昔通っていた高校に教育実習に行った。
当時の教師で久しぶりに出会った。
彼女を見送りに行ったのかも、覚えていない。
あの夏休みの間に、公立の教師試験を受験したのを思い出した。
試験会場がどこだったのかも忘れた。
不合格通知を受け取ったのを思い出した。
そういえば、教員の息子だった同級生は、受かったと聞いた。
夏休みが明けて、東京で再会して、その後も付き合っていたけれど、当時の彼女の下宿には、浪人中の妹が、同居していたので、以前ほど頻繁に彼女の部屋に泊まることはなくなった。
彼女は、薬剤師を目指して国家試験に邁進していた。
次から次へと50年以上昔のことが思い出されてくる。
それだけ、生きてきたということか
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微生物のおかげ
最近、微生物の本を専念して読んでいる。
なぜか惹かれるのです。
自分なりに理由づけをすると、2年前にS字状結腸癌に罹って、自分の腸について気を使い始め、腸内細菌に関心を持ち始めて、微生物全般についての情報を得ようと思ったからだと思います。
それまであまり気にもしてなかった自分の体の中のことに、関連の本を読み進むうちに、自分の意識では制御できないところで、いろいろなことが起きていることに、驚きです。
微生物の情報を得てから、微生物がいなければ、今の自分もいなかったことに思い至るようになりました。
とかく微生物って、これまであまりいいイメージを持っていなかったけれど、微生物がいなかったら、食べ物を食べても、腸内の微生物がいないと、消化も吸収もできず、素通りしていくだけで、何ら栄養が身につかないって、思ってもみませんでした。
とんでもなく複雑なことをやっているのに、ほとんど気が付かずにいたんだと思うと、本当に知らないって、損だなぁと痛感です。
地球ができてから、最初の生物は、今でいう微生物だったようです。
その彼らが、長い年月を経て、現在の動植物に進化してきたんだと思うと、不思議です。
かつての単細胞生物から多細胞生物にどうやって進化してきたのか、やはり不思議です。
今自分は、ヒトとして生きているけれど、どのように枝分かれしてきたのか、想像の範囲を超えている。
昆虫や鳥のナビゲーション能力にも、驚かされるけれど、微生物・寄生虫の生き残り戦略にも驚かされる。
ヨーロッパでは、産業革命前までは、健康という認識がなかったとのことだが、わが国にも、健康という考えは、なかったんだろうなぁ。
中国では、漢方薬を使っていたのだから、それなりに病気に対する処方のようなものがあり、医食同源という言葉があったのだから、健康に近い考え方は、あったんだろうなぁ。
ただ、細菌説が認められるようになったのは、19世紀の末ごろだから、それまでは、対処療法だけだったんだろうなぁ。
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とりとめのない思い。
ふと、思う。
2年前に癌が見つかり、手術をした。
手術で一応癌は摘出され、その後の定期検診で癌は見つかっていない。
かつてであれば、癌になれば絶望的だとされていたが、今は命をとりとめられるようになったようだ。
かつてであれば、2年前に死んでいた可能性が高い。
死が、こんなにも身近なものだという実感は今のところないけれど、身近なものになっている
ようだ。
まぁ、そういう年齢でもあるのは、間違いない。
いつのまにか自分の夢のようなものは、捨ててきたようにも思うし、もともと大した夢を持っていたとも思えない。
ただ、成り行きに流されてきたというのが、間違いのないところだ。
これからも、このまま夢らしい夢を持つこともなく、ただ将来の不安を抱えながら生きていくのかな。
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貧乏性。
歴史を題材にした映画って、特に海外ものだけれど、映画のセットに相当な費用を費やしているんじゃないかと思う作品が多い。
かつて、GYAOで見た「アレクサンドリア」という作品も、結構な費用がかかったんじゃないかと思うセットでした。
それだけでなく、登場する人物も、かなりの人数でした。
物語の内容は、実在した女性天文学者・数学者及びその関係者の半生と宗教戦争が、メインとなっています。
それだけの費用をかけて再現してまで作る映画って、なんだろうと思ってしまうのは、貧乏性だからなのでしょうか。
特に戦争者の映画を見て思うのだが、壊すためにわざわざ作るって、どういう意味があるんだろうって、最近はCGがあるから、わざわざ実物を作ることもないんだろうけれど。
フィクションの小説にしても、マンガにしても、ある人が考えたことを追体験することで、自分が経験しなかったことを追体験することによって、自分の世界を幾らかでも広げるってことかな。
本を読むってことは、自分が知らないことを知って、幾らかでも自分の世界を広げ、それを使わないといけないんだろうけれど、溜め込んでしまう。
そして、忘れてしまう。
これまでの自分の人生って、その繰り返しだな。
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生まれた町の動画。
Youtubeで生まれた町を検索すると、ヒットしました。
観光案内の動画と昔の写真を年代順に並べた動画がありました。
観光案内の動画は、興味がもてませんでしたが、昔の映像は、駅前を中心としたものだったけれど、かつて目にした風景だったので、懐かしさを覚えました。
ただ、途中からは、生まれた町を出た後の画像なので、そういうことがあったのかという感覚です。
既に、あの町で暮らした時間より、外で暮らした時間の方が倍以上も長くなってしまった。
画像として記録に残すことは、洞窟時代に暮らしていた先人も岩に絵を残したのと同じ思いなんだろうか。
自分は映り込んでいないのに、目にしたものを記録として残すのは、後世の人たちへの贈り物という想いなのかもしれない。
作者の妄想ともいうべき物語等を残すのも、同じ想いなんだろうか。
後世の人間である自分としては、先人の作品のほんの一部を享受しただけで、未知のものの方が圧倒的に多いから、とてもではないが、生きている間に目にすることは、不可能だ。
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定期検査結果
本日は、先週定期検査を行った内容を聞きに病院へ行ってきました。
検査結果は、良好とのことでした。
取り敢えず、一安心です。
有休消化のための連休も今日が最終日。
ということです市内の桜見物をしてきました。
風が通り過ぎると桜の花びらがヒラヒラと舞いながら落ちてゆく。
その下を通り過ぎる人。
電信柱と電線が桜にかぶさり、なかなかいい写真が撮れないです。
いやぁ、撮影者の美的センスがないのかも。
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今年の桜。
雨が降る中、外出。
図書館から借りている本を返却するのと、予約していた本を借りるためです。
どうせならと、市内の桜を見ることにした。
図書館の近くのお寺の境内に咲いている桜。
それから江戸川沿いに咲いている桜。
きっと桜だと思うのですが、
そぼ降る雨の中、私以外にもこの公園の桜の写真を撮りに来てた人がいました。
この公園に着くまでに、結構な階段を登るんですが、といっても大した数の階段じゃないけれど、その階段を登るのに息切れがして、仕方なかった。
階段登るのって、結構体力使うと改めて思いました。
今日、晴れれば、もう一度桜を見に行こうかな。
今週で見納めになりそうだからなぁ。
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