人は肉食をやめられるか 

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 川田順造さんの「文化人類学とわたし」(青土社)に収録されている「人は肉食をやめられるか」を読んでいて、著者がアフリカの村で暮らしているときの下記の文章に出会って、私は、忘れていた過去を思い出してしまった。
 それは、「まだ年の行かない男の子が、のどを切った鶏の羽毛をむしり、火を焚いて毛焼きをし、上手に解体して母親のところへもって行くのを見て、鶏肉を食べるということが、このような人間の、ある意味で残酷な行為によって可能になるのを、幼いときから体験するのは良いことだと思った。」
 私が小学校低学年の頃の事、自宅で鶏を飼っていました。
 どういう経緯だったかは、殆ど忘れていますが、覚えているのは、「首を切られた鶏が、一直線に走ってゆき、障害物に衝突するとコロッと倒れるという場面、それからこの文章に書かれている羽毛を毟る作業の場面」です。
 その後、一時期鶏の肉を食べる事が出来ませんでした。
 特に、学校給食に鶏肉が入っていると、もう駄目でした。
 その後、何とか普通に食べられるようになりましたが、あの時の光景は、ショッキングでした。
 身近にそういう風景があったから、人間が生きていくということは、他の生物(植物や動物)の生命を犠牲にして生きているんだと考え方が身についたんだと思います。
 そして、著者が指摘しているように、現在はそのショッキングな部分が隠されてしまっている。
 
 この文章の後に、宮沢賢治の未定稿の『ベヂテリアン大祭』の紹介があり、次に著者が考える「種間倫理から見た肉食問題の四つの概念モデル」の説明が始まります。
 「自然史的非人間中心主義 − 「自然史的な過程(人間が終わってもまだ世界はずっと続く)の一つとしての人類の存在もとらえるという考え方。」  
 「自然史的人間中心主義  − 人間というのは生物の一部として自然の一部、自然の歴史の過程で存在し始めた。しかしやはり人間は人間を中心に考えて生きるのがごく自然。
だから、結局、他の動物を家畜化したり、それを殺したりしても当然であるという考え方。」
 「一神教的人間中心主義  − 創世記(旧約聖書パラダイム 
 厳密にいうと、人間が動物を食べてもいいといったのはノアの洪水以後、・・・人間は神様によってそういうほかの動物を支配し、それを食べてもいいものとしてつくられた・・・」
 「汎生的世界像      − アニミズムなど世界に漠然とした考え方、世界の民俗信仰、民間信仰の中に広くある考え方
  例 日本の鰹塚、針供養など
 人間のために何かを犠牲にするけれども、それは確信犯としてやっているわけではなくて、一種人間の業として仕方なくやっているという意識」
 今の段階では結論は出せないけれど、現時点で一番の力のある「一神教人間主義」はやめないといけない。
 汎生的世界像にはもう少し一般性を持った理論的基礎を考えていきたいとのことでした。
 
 そして、最後に「ですからそういう、汚いことはどこで誰か別の人がやっていればいいんだという差別の構造をなくして、人間が肉食をするということの現実を、教育の面も含めて、もっともっと徹底していくということがまず、肉食をやめるかどうかというものを考える上の一つの出発点になるのではないかと思います。」
 この点に関しては、もろ手を挙げて賛成です。
 そうです、一時期は鶏肉が食べられなくなりましたが、そのことで生命の大切さを身を持って覚えました。
 
  

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