途中下車 千駄木駅 2

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私は、またいつもの途中下車の癖が出て、千代田線千駄木駅で降りることにした。
定期券で自動改札を抜け、地上に出る狭い階段を上る。
この階段は、たまにいたずらな風が、スカートを履いた女性を困らせる場所である。
私は、地上に出て団子坂方面に足を向けた。
団子坂を上りきったところには、かつて森鴎外が居住した観潮楼がある。
いまは、本郷図書館鴎外分室になっているが、入口には森鴎外の写真の展示がある。
上ってきた坂を道なりに進んでいくと、右手に浄土宗天昌山光源寺が見えてきた。
信号を渡って、このお寺に入る事にした。
説明書によると、このお寺は、元々神田に創建されていたが、慶安元年(1648年)にこの地に移転されてきたとのことである。
東京大空襲はこのお寺も襲い、元禄10年(1697年)に造立された御丈約8メートルの十一面観音像や梅の古木等を焼失させたのことである。
今、見ることができるの観音像は、平成5年に再建された御丈6メートル余の御像である。
また境内には、他から移植された『蓬莱梅』と名付けられた樹齢300年の野梅性の白梅が立っている。
春に来た時には、見事な梅の花を見ることが出来た。
光源寺を出て、信号機のある横断歩道を渡って、路地に入っていくと、突き当たりには、曹洞宗大智山海蔵寺がある。
このお寺も、もともとは天文年間(1532−1554年)に 勝庵宗最禅師を開山として、現在の和田蔵門内に創建されたものが、ここに移転になったのが明暦年間(1665−1657年)とのことである。
このお寺の山門を潜って、すぐ目に付くのが、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられているお墓である。
著者の名前は、既に忘れてしまったが、身禄行者(寛文11年〜享保18年・1671〜1733)の名前は、記憶に残っていた。
そのお墓が身禄行者(または食行行者ともいわれている)のものであることを知って驚いた。
なぜ記憶に残っているかというと、身禄行者は、当時の江戸庶民を中心にさかえた富士信仰の中興の祖として知られた人であるが、当時の江戸庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定をしたという事績を残した人だからである。
自分の命を犠牲にして、庶民の苦しみを救おうとしたその行動に胸を打たれたことを記憶していたのだ。
少しの間、私は、そのお墓の前で、両手を合わせていた。
私は、お寺に入る時には気づかなかったが、山門の近くに「都家かつ江之碑」が建立されているのを見つけた。
その碑の左側面には、夫・福丸がかつ江に捧げた句、右側面には森繁久彌による献句が刻まれているのを見た。
その碑の隣には、かつて上野・鈴本演芸場玄関にあった石灯籠が建てられていた。
(この石灯籠はかつ江の生前、鈴本演芸場改装の際し撤去されたもので、演芸場ゆかりの品としてかつ江に寄贈され、かつ江宅で所蔵していたものとのことである。)
途中下車して、ここまでの距離は、そんなに遠くはないが、遥か江戸時代に時間旅行のできた散歩であった。




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