チーズの目 26
朝の散歩は、ここの家のママと出かけた。
今日は、太陽が眩しい。
いつもの公園の僕の遊び場だった雑草は、全て刈り取られてしまってなくなった。
僕の楽しみだったんだけれど、人間にとっては単なる無駄なものだったんだ。
そして、今僕はいつもの指定席の毛布の上で丸くなって瞑想中。
今流れている音楽は、植村花菜さんの「いつも笑っていられるように」の1曲目「ミルクティー」。
「ミルクティー」っていえば、昨日の夕方に流れていた音楽が遠藤賢司さんの「満足できるかな」だった。
そのCDのなかに、同じタイトルの楽曲があった。
同名異曲で、雰囲気はまったく違うよ。
ものには、時代によって流行廃りがあるのは当然だとは思うけれど、「名曲」と言われる楽曲は時代を越えてたくさんの人々の共感・支持を得ることができる不思議な力をもっているんだと、つくづく思う。
ただそのためには、その音楽を伝える伝承者がいないといけないんだと思う。
そうしないと、折角の名曲が埋もれたままになって誰も知らない楽曲になってしまう。
これは、ここの家のパパの受け売り。
だって、僕は4歳の犬なんだから、そんな古い話なんてしらないもの。
そんなこともあって、ここの家のパパは、4年位前から色々な音楽を聴き漁っているんだって。
それに今の図書館には、CDが所蔵されている。
(但し、その地方自治体の体力の問題や利用者の支持があるので、所蔵量に相当な違いがある。)
だから、図書館のHPを利用して所蔵しているCDを探し、ネットで予約もできるし、貸出の準備ができれば、携帯電話のメールで「用意できましたよ。」って連絡もくる。
結構、使い勝手がいい。
なんといっても、無料だからね。
とはいっても、人気のある図書・CDをすぐ読みたい聴きたいっていうのは、難しいけれど。なんせ、予約がいっぱいだから、半年待ちってことになるから、その場合は自分で入手するしかないよ。
『今週のお題』のマイミュージックについては、出題者の意思を全く斟酌せず、もっともっと知っておいたい方がいいアーティスト名や楽曲名があるんじゃないかっていう老婆心で
列記したみたい。(なんか、誤解を受けそうな書き方だな。)
でも、そうやって楽曲漁りって、1人じゃ物理的・時間的に限界があるとは思うけれど、それを共同してやれるのが人間なのかな?
どこかで満足したら、そこから前に進むことができなくなって、停滞するか減速するしかない。
いやそうじゃなくて、日本の江戸時代のようにリサイクルで現状維持することが今求められていることじゃないかという意見もあるし、何事もバランスが大切なんだっていう学者もいるし、本当に考えなくちゃいけないことが多すぎる。
それで、じゃあどうするんだって自問自答して、立ち竦んでしまう。
なんて、僕に向かって聞くから、
「もう、そんな年齢じゃないんじゃないの。」と僕は忠告したくなる言葉を飲み込んじゃった。
植村花菜さんのCDが終わって、いま菅井えりさんの『舞』。
このCDは、「竹田の子守唄」を探しているときに見つけたものとのこと。
ああ、それからリチャード・クレイダーマンさんとかソウル・フラワー・モノノケ・サミットさん、ヒートウェイブさんも取り上げている。
ソウル・フラワー・モノノケ・サミットさんが、原曲に近いって解説書に記してあったって。
この楽曲も名曲だと思う。
なのに、「イムジン川」のように時代に翻弄された楽曲だと思うって、蛇足ながらここの家のパパが言ってました。
昼からは、本当に久しぶりの眩しすぎる太陽のせいだと思うけれど、ここの家のパパは僕を2時間ばかりの散歩に連れて行ってくれた。
連れて行ってくれたのは、日曜日に行ったE川の土手です。
土手には、菜の花が何箇所も群れを作り、川風に吹かれてそよそよと揺れていました。
たまには、少し強い川風が僕の顔にあたり、立ち止まるってこともあったけれどね。
土手を下って、川端の小道を歩いたんだけれど、昨日までの雨で水溜りと泥濘(ぬかるみ)が僕の足に絡み付いてきて、ちょっと進みづらかった。
僕の後をついてくるここの家のパパは、ツルッと泥濘に足を取られて滑りそうになる。
川面に乱反射する太陽の光は、眩しすぎて目をあけているのがつらい。
でも、太陽の光は少し暑いくらいで、身体いっぱい春を感じてきたところです。
そして、今僕は指定席の毛布の上で、丸まっています。
部屋に流れている音楽は、ヒート・ウェイブさんです。
歩きつかれたし、お腹もいっぱいになったから、このまま昼寝に突入だ。