チーズの目 22
僕たち犬は、自分の意志で生きているのだろうか?
それとも、人間によって生かされているのだろうか、どちらなんだろうとふと思った。
僕たち犬は、自殺することなんてきっとないだろう。
でも、人間たちはなぜ自殺をするんだろうか?
折角、この世に生まれてきたのに。
今、生きているってことは、ものすごく奇跡的な確率によって生まれてきたことの証し。
そのことを知らないから、自分の命を粗末にするんだろうか。
僕なんて、生まれてすぐに親から離れて、この家に引き取られてきたから、両親の愛なんてまったく知らない。
だけど、ここの家の人たちに大切にされているんだと思えるから、きっと生きていられるんだと思う。違うかな?
自分は、他から愛されていないと思って生きるってことは、太宰治さんのように「生まれてすいません」的な道化的な生き方で、他人とつながろうとするのだろうか。
でも、あの人の実生活は、かなり計算高かったみたいだけれど・・・。
それから、生きとし生けるものは、全て生かされて、自由意思をもつなんて傲慢だとか・・・。
ふと、とりとめもないことを妄想してしまった。
きっと、今僕は悪夢を見てるんだ。
朝。
外は、空一面の雲。
ここの家のパパが昨日に引き続き早い時間からゴソゴソしている。
僕は、大きく背伸びをして出かける準備OKのアピール。
今日は、連れて行ってもらえそうだ。
僕は、両足立ちをして喜びを体中で表現する。
今日は、いつもと少し違うコースをとる。
途中で、いつもとはちがう小さな公園の近くに、小さな幼児連れの親子のグループと出会う。
近くの幼稚園に通う幼児たち。
通園バスを待っている。
体操服を着た小さな子どもたちと手を繋いでいる母親は、立ち話に夢中。
年長組の子どもたち3人は、少しはなれたところで固まって何か密談中。
僕が、その子どもたちの傍に近づくと、その子たちは、僕を敬遠して離れていった。
その小さな公園の草叢に、僕は鼻を突っ込み匂いを確認する。
それから、マーキングを行い、その公園を出て行く。
坂道を下ると大きな道にぶつかる。
丁度信号は赤、僕は信号を無視して走りぬけようとするが、ここの家のパパは、行かせてくれない。
首のリードが緩まったので、僕はすぐに駆け出して、その交差点を突き抜ける。
あとから、ここの家のパパは、足をばたつかせてついてくる。
交差点を渡りきって、また歩き始める。
今度は、上り坂。
上りきったところから、平地の道路が続く。
前方から、かなり上品な感じのご婦人が近づいてきて、軽く膝を折って、僕に
「おはよう。朝の散歩ね。」って、声を掛けてきた。
でも、僕はそのご婦人にまったく見覚えがないし、ここの家のパパも全然知らない人みたい。
僕は、ちょっと戸惑い、失礼だとは思ったけれど、そのまま無視して通り過ぎた。
又別の小さな公園の近くに、同世代の母親4人と幼児5人のグループに出会う。
こちらは、保育園に通うグループのようだ。
同世代の母親たちは、立ち話に夢中。
そこに、通育バスが到着、子どもたちはバスに乗り込む。
母親たちは、バスに手を振り、固まって近くの団地に帰っていくみたいだ。
僕は、ここの公園の草叢に鼻を突っ込んで先客たちの匂いを確認するのに夢中。
それなのに、ここの家のパパは、僕を引っ張って帰ろうとする。
朝の散歩の儀式は大体終了したことだし、帰る事とした。
そうはいっても、僕は、ここの家のパパの意思の通りには素直には帰らないからと思いながら、先客の匂いがある所に立ち止まったり、引っ返したりしながら帰った。
そして、今僕は、懐かしの音楽を聴いているJOHN COUGARの「AMERICAN FOOL」、DIRE STRAITSのコンピテーションアルバム「MONEY FOR NOTHING」。
夕方近くになると僕は、いつもソワソワし始める。
そして、ここ家のパパが動く度に、「もしかしたら、夕方の散歩に連れて行ってくれるんじゃないか」と思い、そのたびにここの家のパパの見つめるんだけれど、僕の気持ちを察してくれない。
だから僕は、すねてカーペットを爪でゴシゴシ引っかいたり噛んだりして気を惹く。
やっと僕の思いが通じたみたい、「さぁ。夕方の散歩に行くぞ。」
玄関を出ると小雨がぱらついていたけれど、意に介さず、僕は外に出て行く。
いつもの散歩をコースを辿る。
ところが、雨が本格的に降り出したものだから、ここの家のパパはさっさと帰ろうと早歩き。
でも、僕は折角出てきたんだから、いつもの通りマーキングしたいのに、グイグイと僕は引っ張られる。何度か、負けじと踏ん張ってみたんだ。
そうすると、ここの家のパパは、雨と泥にまみれた僕の身体を両手で抱き上げて、一目散と家に走り始めた。