さよなら 8

2009年
その日、私はいつものように仕事を終え、帰り支度をしていた。
ちょうどその時、同じように帰り支度を終えた同僚が近づいてきて、
男「帰りにちょっと一杯寄っていこうよ。」と誘われた。
私「いやぁ、いつものことですが、今日も先立つものがないんです。」と断った。
男「そのことは、いいよ。
この会社の中でまともに話ができるのは、○○チャン(私の愛称)しかいないんだから。
1時間ぐらいいいだろう。」
そう言われると、私も悪い気がしないので、応じることにした。

私たちは、駅近くのショッピングセンターの中にある行きつけの居酒屋に入った。
何が契機で、同僚がその話を始めたのかは、はっきりと覚えてはいないのだが、その話の内容だけは妙にはっきりと覚えている。


1971年。 
あれは、今から40年ぐらい前のことだ。
俺が北海道出身っていうのは、知っているよな。
とにかく、親父の勧めで大学だけは行けと、俺は東京の大学を受けて、まぁなんとか受かった。
時代が時代だったからなぁ。
まだ学生運動の残り火が燻ってたんだな。
だから、学校行くよりも殆んどバイトに明け暮れていたよ。
まぁ、それは置いといてだ。
話って言うのは、初めての夏休に田舎に帰る時のことなんだよ。
あの当時は、今みたいに、ジェット機で簡単に帰れる時代じゃなかった。
上野から電車で帰る泊りがけの旅だった。
それで、俺は上野から電車に乗って、空いている4人掛けの席に座ったんだ。
そこに上品なご婦人とその付き人のような人が入ってきて、俺の前の席に並んで座った。
最初、その二人が話していたんだけれど、今思うと俺が退屈そうにしていたんで、きっと話し掛けてくれたんだなぁ、きっと。
「実は、私の娘はピアニストのH.Nなんですよ。
今回やっと念願のプロデビューすることになったんですよ。」と、本当に嬉しそうに話し始めた。
しかし、その時の俺はピアニスト、ましてクラッシックのピアニストと言われても、まったく門外漢だ。
だが、俺って「見た目いい人」だろ。
はっきり言って、その話題には困ったけど、なんとか話を合わせることにした。
そのうち、今度は俺の話になって、
「田舎から出てきて苦労してるんでしょうねぇ。」って、かなり同情されたりしてね。
それで、車内を弁当売りが回ってきたんだ。
俺は、余分な金は持っていなかったから、夜食をガッツリ食べようと思い、昼食抜いてもいいと思ってたんだ。
そしたら、向かいの上品なご婦人が、俺の分も一緒に買ってくれたんだよ。
それも、結構値が張る弁当とお茶を。
さっき話題に上った娘のことが、とても嬉しいし、それを聞いてくれたお礼だって。
逆に俺の方が、お礼を言わなくちゃいけないのにさ。
しかし、あの弁当は本当においしかったよ。
途中駅で、その上品な婦人は、付き人と降りたんだけどね。

それで、その後その娘のピアニストの名前を調べてみたよ。

今はもう、そのご婦人は、亡くなっちゃったけれどな。
あの時話題に上ったピアニストの名前は、今じゃ大抵のクラシックファンならわかるんじゃないか。
あの時のあのご婦人の優しい心遣いが、今でも忘れられなかったから、それを誰かに伝えたくてね。
まぁ、昔話だよ。

にほんブログ村 オヤジ日記ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ